孫子を「帝王学」として読む
「孫子」は、君主の視点で書かれた兵法書であると前述しました。国家が存亡をかけて争う乱世において、どうすれば国を存続させ続けられるのか、社稷と民の生活を守ることができるのか、その方法が書かれているのが「孫子」という訳です。本ページでは、孫子が君主の視点で書かれているという、その理由とその活かし方につい説明します。
軍人の視点は、戦争に勝利する方法を求めますが、君主の視点になると、将軍と軍隊をいかに使うのか、国を守るのか、存続させるのかを求めることになります。、軍人と君主では、視座が違う訳ですが、孫子を読むにしても、より視座や抽象度の高い解釈を学ぶことで、ビジネスや人生全般に応用ができると考えています。
現行孫子と竹簡孫子の違い
「孫子」には、三国志の英雄曹操が編纂したものを大元とする「現行孫子」とそれよりも数百年古い漢の時代のお墓から出土した「竹簡孫子」の二系統があります。「現行孫子」と「竹簡孫子」は、内容や表現が違うところが多数あり、「現行孫子」は、さまざまな軍人、学者が、時代に合わせて書き直しているとされているのがわかります。「現行孫子」と「竹簡孫子」の違いの中で、もっとも大きいのは、形篇の中にある「攻めれば余り有り」と「守れば余り有り」の記述の違いです。「現行孫子」は「攻めれば余り有り」、「竹簡孫子」は「守れば余り有り」という訳です。
この違いこそが、将軍の視点と君主の視点を理解するポイントになります。
「攻めれば余り有り」は、攻める側が戦場を選べることから戦力の数的優位を作れるということです。数的優位を作れることで、攻撃側が有利というのが、「現行孫子」です。対する「竹簡孫子」は、防衛側、迎撃する側の方が、国力を消耗させないという意味で余力を作り出せる点で優位とします。作戦篇で「軍隊に敵地に派兵することが国力を消耗させる」、謀攻篇で「国力を維持して天下を争う」とあることからも、「竹簡孫子」の「守れば余り有り」の方が、孫子の真意であると考えることができます。乱世、戦乱においても国を守り永続させる教えとして、国力を消耗させる現行孫子の教えは、視座を低めていると言えます。
「将」を「もし」「まさに」と読まない
前述のように「孫子」が君主の視点で書かれているとすると、将軍に向けて書かれていたとされるところが、実はそうではないのではないかという疑問が出てきます。例えば、「将」という字は、「将軍」の意味の他に、「もし」「まさに〜とす」の使われ方をされている箇所が多く存在しているのですが、これを「将軍」の意味をだけを使って解釈し直せば、「君主が将軍を用いる」視点で訳文を書き直すことができます。
例えば、計篇では、「将、吾が計を聴きて、之れを用いれば必ず勝つ」、九地篇では「敵、衆にして以て正、将は来たらんとす」「散地には、吾、将に、其の志を一にさす」とあります。「将、吾が計を聴きて」の「将」は、「もし、我が計を聞き入れれば」と、「将は来たらんとす」は「まさに来たらんとす」、「吾、将に、其の志を一にさす」は「まさに其の志を一にせんとす」という訳です。
これらの「将」は、本研究において、すべて「将軍」に置き換え直して解釈することができました。各篇の現代訳をお読み頂けれと思います。
このように解釈を精査すると、「孫子」は丁寧に書かれていることが分かります。後世の人が迷うような表現をしていないと思います。ここからさらに、漢字の意味が「将軍」や「もし」のようにバラバラではなく、同じ意味で統一されているという仮説が立ちます。この仮説を基に、一つの漢字が全篇を通して同じ表現になるような意味を追求する研究テーマが生まれる訳ですね。詳細は、この後の「解読|孫子の解説5」「表現|孫子の解説6」で説明したいと思います。