表現に注目する
解読方法の次は、表現の違いを検討します。例えば、日本語訳にすると同じ意味になりますが、孫子の中では使い分けられている漢字があります。これらを辞書で調べようとすると、調べることができて納得できるものもあれば、納得できないものがあります。そして調べることができないものがあります。「字源」を使ったり(他の古典で使われている事例を調べる辞典)、白川静先生の漢字の成り立ちなどから検討します。
例えば、「なし」「なかれ」という感じがあります。基本は「無し」ですが、「无し」があり「莫し」があります。「なかれ」の場合、「母れ」もあれば、「勿れ」もあります。これが明確に使い分けられている訳ですね。これら漢字のニュアンスの違いを辞典で調べても「なし」とあるだけで、よくわかりません。
そこで前述した解読方法を使い、全文を通して使い方を精査して行くことで、私なりのニュアンスの違いを見出しました。
「無し」は、普通のなし、「いない」、「ない」ということです。、
「无し」は、般若心経で使われる「なし」ですが、滅びる、失うの意味がある「なし」です。ですから「無形」は、「形(戦力充実)がない」と解釈しますが、「无形」は、「形(戦力充実)を失う」というように意味が大きく違います。虚実篇に「无人の地を行けばなり」とあるのですが、従来は「相手がいない場所に行けばなり」としますが、私は、「相手を消耗させる場所に行けばなり」と解釈をします。これは非常に大きな違いと言えるのではないでしょうか。
次の「莫し」は、「●するものは、いない」という使われ方をします。計篇に「将は聞かざること莫きも」とありますが、「将軍でこれを聞かないものはいない」というように解釈します。
次は「なかれ」ですが、「母れ」と「勿れ」のに種類があります。「母」の場合は、女性を犯すなということで、かなり強い意味合いの「するな」になります。「険しい地形に進むこと母れ」というように、絶対にするな。これを自動車運転に例えると、絶対にアクセルを踏むなということになります。もう一つの「勿れ」は、「従うこと勿れ」とあるように、「勢いがある状況でも、勢いに従うな」、すでに推進力が出ている状態で、その推進力に従って進んではいけない。自動車運転に例えるとブレーキを踏めということになります。
このように同じ「なし」の字であるのに、それぞれの漢字の使われ方から、表現の違いを検討すると大小様々な違いを発見することができます。
同じように、「みる」という漢字にも、「見る」「視る」「観る」「察る」があり、論語の教えで「視・観・察」があるように、「みる」にも様々なニュアンスがあり、孫子でも使い分けがされていたりします。ここでは詳細は解説しませんが、私の作った現代訳を読んで頂ければと思います。
名詞、動詞なのか、主語なのか、目的語なのか、
もう一つ、中国古典を読んでいて、悩ませるのが、その漢字が、名詞、動詞、主語、目的語のどれなのか、わからない事があることです。宋代や明代の中国古典を読むと、主語や目的語、動詞がわかりやすいですが、2,500年前の諸子百家は、主語、目的語、動詞の使い分けが、明確ではないように感じます。名詞であり動詞であるような場合が多いです。例えば「形」は、戦力の充実の意味ですが、名詞でありながら、動詞でもあります。
江戸時代よりも前に作られた、書き下し文を読むと、日本人が理解しやすいように、名詞と動詞が明確にされているのですが、漢文を直接読むようになると、名詞と動詞を明確に分けない方が、文意が理解できるようになります。
例えば、「形」という字を動詞として使う場合は、「あらわす」と読みますが、これだと名詞のニュアンスが消えて、私が提唱する陰陽の対概念で考える糸口を失ってしまいます。だから「形」は、動詞でもあり名詞でもあるように「形する」と読むのが一番ニュアンスが掴めます。
次は、主語と目的語についてですが、日本人が漢文を日本語化する書き下し文を読むと、助詞を自由に変化させることができます。ですから、漢文では同じ文章の羅列なのに、あるところでは「は」、あるところでは「を」にしているところがあります。私は、孫子は、複雑な文法は少なく「主語 + 動詞」で書かれていて、「目的語 + 動詞」は多くないと考えます。
例えば、地形篇に「吾が卒の撃つ可きを知るも、而も敵の撃つべからざるを知らざる」とあります。従来の、主語と目的語を自由に変化させる読み方の場合、「吾が卒【が】攻撃できることを知るも、敵【を】攻撃できないことを知らなければ・・・」と解釈ていますが、私は両方を【が】に統一して読んで、「吾が卒【が】攻撃できることを知り、敵【が】攻撃できないことを知らなければ・・・」、とする方が、漢文から読む場合、自然です。そしてこのように読み方を変えることで、文意が大きくが変わります。このようの「名詞」「動詞」の区別をしない、「主語」と「目的語」を漢文に合わせて単純なものに戻す(変える)ことで解釈が変わる訳です。