孫子の解読方法
ここでは私が「孫子」を読むに当たり、どのように解読をしたのか整理して、その一部を説明したいと思います。ここまでの解説をご覧になって頂けたならば、私が先入観を捨てて、日本独自の漢文の読み方に拘らず、一字一句を精査をした事は理解して頂けたと思います。日本語でもなく、高校で習う漢文や古文でもなく、中国語でもなく、現代の漢字と似ているが全く同じではない、漢字の羅列の文章として読みます。
大論文を書く人の立場に立ったならば、漢字によって解釈に幅があるような不親切な書き方はしないはずです。同じ意味で使われる可能性は高いと思われますし、孫子の独自の漢字の使い方をする場合、必ず本文に書かれるはずです。このような仮説を立てると、
一つの漢字についても、孫子十三篇を通して、同じ意味で文意が成立する意味を模索する。例えば「道」という字でも、「勝を知る道」と「地の道」「敗の道」「上将の道」とあります。「道」は様々な解釈がでる難しい言葉ですが、書く人の立場になって共通の使われ方を検討する訳です。私は、「孫子」が君主に教えるある種の理論書、マニュアルだとすると、様々な事項の「見極め方」と解釈すると全文で意味が通じると考えました。このように、従来の解釈はありますが、その意味に縛られずに、全文で通じる意味を考えます。
もう一つは、「孫子」に出てくる言葉は、必ず孫子の中で解説があるはずだと考えました。論文を書く立場で考えると、説明のない独自の言葉を使うかという事です。例えば「計篇」に「主用」という言葉が出てきますが、従来の解釈の一つに兵站やロジスティクスと解釈するものがあります。孫子の中ではもちろん兵站やロジスティクスについて解説する文章はありません。しかし、「主」は君主であり、「用」は君主が将軍や軍隊を持ちいる言葉として使われており、さらに孫子の本文の中で君主が将軍をいかに用いるかの説明は、何度も出てきます。このことから、「主用」は、君主による将軍や軍隊の用い方と解釈します。このような言葉が多数出てきて、軍事理論に当てはめて解釈をしていますが、そのような前例に従わず、基本的には本文の中で出てきた使われ方で考えます。
そして次は、「之」「是」「此」などの使い方です。「之」は、「これ」と訳す場合と、「○の●」というように「の」として使います。「これ」と訳す場合は、前後の文脈からなんとなく意味を当てはめて使う場合が多いようです。私は、「之」を「これ」と読む場合を選択し、ほとんどの場合、前の文章で使われいる漢字や文意が込められると考えました。例えば、勢篇で「故に善く戦う者は、之れを勢に求めて、人に責めず」とあります。一般的には「之」は、「軍隊運用は勢い出すことを求める」と解釈するものが多いですが、私は、前文に「勇怯は勢なり」とあることから、「勇を勢に求めて」と解釈しました。「軍隊運用に勢いを求める」のと「勇気を発揮させるためには組織の勢いを求める」とでは、意味合いが違います。孫子と使う場合に、後者の方がより具体的と言えるでしょう。
次は、文章の順番に意味があるということです。つまり接続詞がなくても、文章が繋がりには意味があると解釈します。例えば、勢篇の冒頭では「分数」「形名」「奇正」「虚実」について述べる文章が続きますが、この文章には接続詞がなくても、「分数」ができることで、「形名」ができて、「分数」と「形名」ができることで「奇正」ができ、「奇正」ができることで「虚実」ができるというように、繋がっているように読みます。このように接続詞がなくても、文章の繋がりに意味を見出すように読むことができます。この方法を使うことで、一つの篇の中で、様々な内容のことが書かれていて、まとまりを感じにくいところにも意味を見出すことができるようになります。
以上、このような方法で、孫子の中における漢字の意味を探っていきました。そして、陰陽理論や中国古典の教えと照らし合わせて、全文の整合性が取れる解釈を模索しました。従来の孫子に慣れている方が私の解釈や現代訳を読むと、違和感があるかもしれませんが、適当に作ったものではありませんので、読み比べて、ご自身の中で消化して判断して頂けると幸いです。
他の中国古典への応用
補足として、私の中国古典の解読の方法は、「論語」「大学」などの四書五経や、「韓非子」や「老子」など、同時代に書かれた諸子百家を読む際にも応用できるものとして、今後の勉強、研究の方法として他の研究者に提案したいと考えています。「竹簡孫子」は、体系的に書かれた十三篇が当時の姿で残っているために、横断的に漢字の意味を探ることができる古典であり、伝統的な解釈に縛られない研究ができる可能性があります。私は、同志を得て、他の古典の研究を進めていけたらと考えています。